今、都内では、仕事前に禅寺で座禅を組む人たちが増えているそうです。
禅は、ヨガから生まれたもので、インドで「ディヤーナ(瞑想の意味)」と呼ばれていたものが、日本で「禅那(ぜんな)」と呼ばれるようになりました。
しかし、日本に入ってくる段階で、多くの技法が失伝してしまいました。
日本に入ってくる前は、中国で禅が広まりましたが、中国では、ヨガの「アーサナ(ポーズ)」に該当するものがまだ存在していたようです。
禅で主に行われる瞑想法である「只管打坐(しかんたざ)」は、ただひたすら無念無想になって瞑想をするということですが、
これで、無の境地になるのは至難の業といわざるをえません。
一般的に、無心になれず、雑念が浮かぶ心をどうにかしたいと思い、禅寺の門を叩くと思うのですが、
そこでいきなり無になって座ることを課されるからです。
意外に思われるかもしれませんが、ヒマラヤで行われていたヨガでは、
このように無心になって座り続けるということは基本的には行われません。
瞑想は、外から見ていると何をしているのか分かりませんから、瞑想の形の部分だけが伝わってきた可能性が考えられます。
そう考えますと、ヨガ、ダンス、語学、料理…など、
何でも学びたいことがある場合は、直接、現地で良い師匠を見つけて教えてもらうことが極めて重要なのだと思います。
そして、「鉄は熱いうちに打て」といいますから、語学を学んでから修行ではなく、現地に飛び込んでから、語学も合わせて勉強していけばいいと思います。
実際、語学を勉強してから、修行すると決めた場合、
多くの知人が、実際に行動に移せず、はじめに抱いた夢もどこかにいってしまったケースを本当に多々目にしてきたからです。
私は、語学は堪能ではありませんが、あらゆる場所にヨガなどの修行に出向いてきました。
人がまったく踏み入らないような海外の山にテントを張って何日もこもって修行をしたこともあります。
不安はもちろんありましたが、学びたい意欲の方がそれをはるかに上回っていましたので、全く平気でした。
帰りの日本便の飛行機の中でよく無事に帰って来れたなと、よく思い返していたことを昨日のように思い出します。
後先の不安は、後から少し遅れて襲ってくるぐらいでちょうど良いのかなと個人的には思ったりしています。
実際に行動してみると、案外OKなことがほとんどですので。